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沖縄京都の塔にて慰霊追悼式を行う

◆熱い思い

 昭和50年、對馬丸の慰霊追悼に植木光教参議院議員に同行いたしました。低気圧による荒天候の中、巡洋艦に乗り込み、悪石島(鹿児島県)に向け那覇の港を出航いたしました。強風が吹き、雷が轟き、海は大荒れ。ところが對馬丸が撃沈された海上に着く頃には、今までの荒天候が嘘のように雲はなく快晴、海は静かに波もなく異常に静まっていました。この中で、公式には初めての慰霊祭が斎行され、私も厳粛に花束を海上に捧げました。この体験が、私の心に熱い思いとなっています。

◆“沖縄京都の塔”とは

 昭和39年4月29日、京都府沖縄戦没者慰霊塔奉賛会が京都府出身沖縄戦線戦没者2,538柱の御霊の冥福と世界恒久平和を祈念して、玉砕の地、宜野湾市嘉数ヶ丘に建立されました。碑文には、『昭和20年春沖縄島の戦いに際して京都府下出身の将兵2千5百3拾有余の人びとが遠く郷土に思いをはせひたすら祖国の興隆を念じつつついに砲煙褌雨の中に倒れたまた多くの沖縄住民も運命を倶にされたことは誠に愛惜に絶へない。・・・・・・。と記されています。塔の石材は京都市左京区鞍馬から産出した「鞍馬石」を使用しています。碑文「京都の塔」は三輪晁勢氏により書かれたものです。

◆京都府出身戦没者慰霊追悼式行う

 昭和20年6月23日に沖縄戦が終了し本年で65年を迎えます。平成22年2月1日(月)午前10時より、京都の塔(宜野湾市嘉数ヶ丘)において、ご遺族や奉賛会会員を始め39名(京都からの参列者)の皆様が参列し、朝に降った雨が嘘のように晴れ間も垣間見える中、慰霊追悼式を厳かに執り行いました。京都府より小石原範和副知事、沖縄県より福祉保健部川久保重之参事、宜野湾市より伊波洋一市長、(財)沖縄県平和記念財団与那覇事務局長、でいごユネスコクラブ 国吉司図子会長他多数の皆様にご参列いただきました。毎年、6月には、「嘉数の碑」前において、嘉数ヶ丘の激しい攻防戦で弾薬や食糧の運搬などに従事し亡くなられました嘉数区民374名のご冥福をお祈りし、慰霊追悼式が行われます。(財)沖縄県平和祈念財団の皆様が清掃や樹木の伐採など塔の維持管理を行って頂いており、また、4月29日からは、「平和祈念こいのぼり掲揚事業」としてこいのぼりを揚げて頂いています。

◆嘉数高地とは

 嘉数高地は、第二次対戦中に作戦名第七〇高地と命名され、藤岡中将率いる第六十二師団独立混成旅団、第十三大隊原大佐の陣頭指揮で約千人の防衛隊で編成された精鋭部隊と作戦上自然の要塞の上に堅固な陣地構築がなされたため、16日間も一進一退の死闘が展開された地である。米軍は「死の罠」、「いまわしの丘」と恐れ、両軍とも多くの尊い人命を失った激戦地であった。この戦闘による米軍の被害は死者行方不明者約5百名、守備隊も多大な被害を被り、戦闘能力がかなり低下したそうです。眼下に普天間基地を臨むことが出来ます。

 〈当時のトウチカが残っています〉

         

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「“学童疎開船”對馬丸の悲劇」とは◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「對馬丸」は昭和19年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1,788名を乗せ、和浦丸、曉空丸と護衛艦宇治・蓮の5隻が船団を組み、長崎を目指し出航致しました。翌22 日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmを航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、沈められました。犠牲者は1,418名と言われています。子どもたちは、「ヤマトへ行けば汽車にも乗れるし、雪も桜も見ることが出来る」と修学旅行気分ではしゃいでいたと言う。