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北方の島々を訪問して

 平成4年から始まった「北方四島交流事業」の一員として、平成20年8月21日から25日まで、北方領土のうち色丹島、択捉島を65名の皆さんとともに訪問いたしました。

◆「北方領土とは」
 
  根室沖に点在する歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島のことです。四島合せての面積は5,036平方kmで、福岡県の面積(4,968平方km)とほぼ同じです。歯舞群島の貝殻島まで、根室から3.8kmの距離にあり、一番遠い択捉島は144.5kmに位置しています。四島には、終戦時3,124世帯、17,291人の日本人が住んでいました。現在は16,710人(歯舞群島は警備隊のみ)のロシア人が住んでいます。北方領土は1855年の日魯通好条約において日露両国間の国境が決められて以降、我が国固有の領土なのです。

◆「北方領土問題」とは
 先の大戦で我が国が降伏の意図を明確に表明した後に侵攻し、日本人島民を強制的に追い出し、不法に占拠していることに対し、返還を求めていることです。日本が8月14日ポツダム宣言受諾後の8月18日から、ソ連軍はカムチャッカ半島から千島列島へ侵攻し、31日までに千島列島の南端、ウルップ島までを占拠いたしました。これとは別に樺太から進撃したソ連軍が8月28・29日に択捉島、9月1日から4日に国後島・色丹島・歯舞群島に侵攻し、9月5日までに北方四島を不法に占拠し、1946年2月、スターリンによって一方的に北方領土を南樺太、千島列島とともにソ連領に組み入れたのです。半数の島民は危険を顧みず、自力で小船等で島を脱出(荒波で亡くなる方もあったとか)。島に留まった者は、昭和22年から24年にかけて樺太を経由して内地に強制的に引き上げさせられたのであります。

◆「北方四島交流事業」とは
 平成3年4月、日ソ共同声明において「ソ連側は、日本国の住民と諸島の住民との間の交流の拡大、日本国民によるこれらの諸島訪問の簡素化された無査証の枠組みの設定」の提案があり、10月、「領土問題の解決を含む日ソ間の平和条約締結問題が解決されるまでの間、相互理解の増進を図り、問題の解決に寄与することを目的として」、我が国国民の北方四島への訪問を、旅券・査証なしで行うこと等を内容とする枠組みが作られ、平成4年4月から北海道で、平成5年4月からは青森以南で交流が行われています。双方から述べ326回、約1万5千人が交流しています。

◆「産業」は
 漁業と水産加工業(豊富な樺太マスやさけ漁など)。

遡上する樺太マスを捕獲
         
ギドロストロイ社の水産加工場                     クラボザボック水産工場                          
               (択捉島)           (色丹島)

色丹島の水産加工場やギドロストロイ社の水産加工場(択捉島にあり極東一と言われている。最盛期にはサハリンからの季節労働者がやってくる)において、冷凍にし(いくらは塩漬け)サハリンを経由し各地に送られています。有萌湾には大きく長い昆布が漂着しており、タラ、カレイ、蟹など漁業資源は豊富。農業は見られず、日本人が耕し、稲がたわわに稔っていたであろう田畑は荒れ放題、唯一、牛が放し飼いされている。

有萌湾に漂着する昆布

 択捉島では、飛行場が建設中で二年後に完成するとのこと。この飛行場もギドロストロイ社が工事を請け負っており、この島の経済はギドロストロイ社に委ねられているようである。

◆「戦前の日本」今は・・・  
 「紗那郵便局」と「択捉水産会事務所」は戦前のままで残っており、今も使用されていると聞かされていた。
         
3年前には使われていたという       択捉水産会事務所
         「紗那郵便局」                (現在)

64年の年月を経て、風雪に耐え、その雄姿を見ることが出来ると期待していたが、骨組みだけになり、崩れかけている無残な姿を私たちは目の当たりにすることとなった。後の交流会での私達からの強い要請に保存を考えると応えた現地の人の言葉に淡い期待を寄せるものです。

◆「憤り」
 
内岡湾に整然と並べられている“拿捕船”
 
 到着した択捉島の内岡湾で目にしたものは、4隻の日本漁船が整然と並んでいる光景でした。それは、まだ新しく日本船名が残ったままのものであった。私達を北方の島々から運んでくれたロサ・ルゴス号の乗員は、4隻の船は拿捕されたものであり、国後島でも、択捉島でも、行き交っている漁船の多くは拿捕船であり、「欲しくなったら拿捕するんや」と。ロサ・ルゴス号の乗員12名のうち8名が拿捕経験者で、中には4年間サハリンに送られた者もおり、「自分も拿捕されかけたが逃げ切った」と語ってくれました。危険と隣り合わせの北の海での漁業の厳しさを痛感致しました。

◆「町」は・・・
 そこが市役所なのか、商店なのか、入ってみなければ判らない。公共の建物も、訪問した中等学校(小中高一貫校・十一年制)や水産加工場、地熱発電所などが目立つ程度であり、後は木造の粗末な物でした。

商店内には豊富な品が。       
    
稼動する地熱発電所               真新しい「穴潤初等中等学校」

日本海流と千島海流の影響で比較的暖かく8月は平均16℃、2月の平均気温が−6.5℃と比較的暖かくただ、2mの積雪と強風が吹くとのこと。家の建て様も判るような気もします。道路は全くの無舗装、もうもうと砂埃を舞い上げトラックやランドクルーザー(大半が日本製)が走り、その横を人々は気にもせず歩いていました。牛が道端で草を噛み、牛糞が至る所に散らばっています。

もうもうと砂塵をあげ疾走するトラック。

◆「ホームビジット」では・・・
 決して立派とは言えない2階建ての集合住宅の2階に訪問先はありました。国家公務員のノサチョワさんのお宅です。ご主人と娘二人、ノサチョワさんの妹とともに出迎えを受ける。魚・肉料理、ウォッカにワイン、黒パンにケーキなどでおもてなしを受け、暫し、懇談いたしました。

歓迎を受け歓談(ノサチョワさん宅)

平均寿命は64歳、月収は4万から7万円位、定年は55歳(45歳の所も)、定年後や無職の人には月に2万円が支給されている。旧ソ連時代は特別な地ということで賃金や年金には優遇策がとられていたそうで、「ペレストロイカ以前はお金があったが物がなかった、今は、物はあるがお金がない」とのことでした。四島返還については、日本人(旧島民)にとって、この島が故郷であるかもしれないが、私や両親にとっても60数年住んでおり、ここが故郷であると語る彼女、返還の難しさも垣間見ることが出来ました。返還には反対だが、日本人が沢山来て、お金を落として欲しいとも。働いている姿も余り見かけず、北の厳しい生活ぶりも垣間見ることが出来ました。

◆「今後の行方」は・・・
 解団式後にお会いした歯舞群島出身者で78歳の石田さん。今も花咲蟹を販売されている元気なおばあちゃん。「返還されるまで頑張ります」と語る言葉に私達も頑張らなければと新たな闘志が湧いてきました。

返還を待ち望む“石田さん”

北方領土返還の署名が8千万人を越えたとのこと。現在7千人の四島出身者が根室を始めとする町々に住み、一日も早い返還を待ち望んでおられます。根室でお会いした石田さんが歯舞に戻られる日が早いことを心から願うものです。